昭和46年11月30日 朝の御理解
御理解 第18節
「此方の事を、神、神と言うが、此方ばかりではない。此処に参っておる人が皆、神の氏子じゃ。生神とは、此処に神が生まれると云う事で、此方がおかげの受け始めである。皆んなもその通りにおかげが受けられるぞ。」
皆んなもその通りにおかげが受けらるぞ、と。その通りのおかげと云う事はどう云う事だろうかと。その通りのおかげ。教祖の神様が億万長者になられたと云う訳でもない。ただ、あの教祖の神様のおかげを受けられたと云う事。皆んなも此の通りのおかげが受けられると仰る、此の通りのおかげとは、教祖の神様のお心の状態、所謂和賀心の状態。和らぎしかも喜べる、そう云う心の状態。そう云う心の状態に、は、皆んながおかげが受けられると教えられた、ね。
是は人間氏子誰しもがね、そう云うおかげが受けられる。教祖の神様が例えば億万長者になって御座ざったとしたら、ね、私共も億万長者になれると云う事なんです。所が教祖の神様は、億万長者にはなっては御座らん。教祖様が頂いておられたと云うのは、ね、何時も和らいだ、喜びの心に満ち溢れられた心の状態でおありになられた、と云う事。それが教祖の神様が受けられたおかげ。そう云うおかげの受け初めであると。
皆んなも此の通りのおかげが受けられる、だからあの教祖の神様の様な所迄行かんに致しましても、そのそう云う心を頂かせて頂く事に、精進すると云うのが、金光様のご信心を頂く者の、焦点でなからなければならないと云うね。中々和わらぎ喜ぶ心と何とはなしにお道の信心を頂いておると云う事。まあ合楽のみなさんの場合で言うと、本当に合楽にご神縁を頂いておったと言う事が、本当に有難いと言う風に表現されます。
ですから本当にそう云うおかげを頂いておったと云う事が有り難いと、四,六時中思えれる心、ね、そう云う心の状態が続けられたらまず有難い。時々ね昨日は星野の教会の記念祭で、此処からも皆さんおかげを受けられました。若先生が私の代わりに参りました。でもう兎に角、昨日星野はもう雪国だったそうです。そうでしょうもう山の、此処辺ですら、霙が降ったくらいでしたからね。それで開けっ放しにしちゃるから、もう寒いの寒いのがたがた震うたて云う。
そして皆さん帰って見えられました、もう夕食を致し取りましたら、皆帰って見えられた。有り難いまあお祭りを頂いて帰って、もうあちらでお食事を所謂御直会を頂いた時には三時じゃった。もうそれ迄そのお話が、あのどっかの若い先生が見えておられましてね、青年教師の方が、その方のお説教じゃったらしい。その中にお話をしながらその先生が、聞いておるご信者さんがたに、私は此処がどうしても分らんから、皆さんにお分りの方があったら、教えて下さいと云うてその。
まそれはまあお話の一つのゼスチャーであったろうと私は言いましたら、いいえ本気で、分らんから教えてくれて言いよんなさった。そこで堤清さんの話じゃないですけども、はい、ちゅうち手を挙げてちから、それはこげんじゃないですか、ちゅうて教えてあげたいと思いましたと帰って話していましたが、成程その事を後から聞かせて頂いて、合楽の方達ならば、そう云う返事は成程出来るだろうと、こう思った。
まだ若い青年教師の方ですから、まだ奥さんを迎えられて、あんまり間もないのでしょうけれども、もうお子さんが一人おありにあるとかと云う。その奥さんが、ま、大変難しい病気をなさった。それで、ま、医者にかかられたわけですけれど、此の儘ほっとけば、まあ、一年半の寿命だと医者から言われた。そこでどうでも病院に入院させて頂いて、例えばそれはまあ、手術かなんかなさるので御座いましょう。所がその奥さんが言われる事がです、ね、もちろんその子おを聞かれてからです、ね。
もう、私は此の病気を境に一つ本気で、生まれ変わったと思うて、生神金光大神のお取次によって助けて頂くと、だからどうぞ、医者やら薬やらと言わんで下さいと言われる。所が教祖の神様は、御理解の中にも、ね、祈れ薬れと言うてあるではないかと、あちらこちらの先生方の、に来てもろうて、家内が医者に掛からんと言うから、医者に行っておられたけれど、逃げ出してて帰って来られたそうですね。
病院に抜け出して、そして金光大神、兎に角生まれ変わったと思うて、一心にお縋りりさせて頂く、とこう云うのである。だから、どうぞ、病院にはやらんでくれとこう願われるけれども、まあ、その昨日お話になった先生、また周囲の者は、そんな事を言わずに、ね、医者にかかる事が悪い事じゃない、教祖様も祈れ薬れと仰っておられるのであるから、病院に行っておる、そして信心もしっかりさせてもらう、私たちも一生懸命願わせてもらうから、病院に行ってくれと言われるけれども。
私はどうしても病院には行かん、も、兎に角是で死んだと思うて、新たに生まれ変わる積りで、私は今度は生神金光大神のお取次ぎをそこにはっきり、その頂くと云う覚悟が出来けたからと言われる。そこで私としては、主人の私としては、どうあったが本当かと言うて、その願われた。皆さんに聞かれたと云うのです。皆さんも今、ニコッと笑よんなさるとこ見ると、は、そんくらいな返事なら私でん、すぐ出来くる、と言う様な顔しとられます。確かに合楽の人なら、出来ると思うんですよ。
成程祈れ薬れと、ね、祈れ薬れに、薬れ祈れにするからおかげにならんと、祈れ薬れにすれば、おかげになると仰る。さあ、医者だ薬だと云うからおかげにならん。此処ん所はね、あの、病気が良くならんと言う意味じゃないんですよ。それはお取次ぎも頂かず、お願いもせず、薬を飲んで良うなったと云う、言う方は沢山ありますから、ね、言うならば願いの方を後からにしたけれども、おかげを受けたと云うのでは、其処では、そう云う病気が良くなるとか良くならんと言う意味じゃないと思う、ね。
もっと広い意味においてのおかげなんです。其の事を通しておかげが受けられるおかげの事なんです。そうでしょうもん。ね、ですから、祈れを先にするなら、なおさら有難い事、言うならばお取次ぎを頂いて、此のお薬を飲ましてもらいます、お取次ぎを頂いて、手術をさして頂きます、と有り難い。だからそうしなさいとこう云う訳、所が家内はそうは申しませんと、私も主人として、此の儘亡くなってでももらうならば、子供が可哀想、どうでもここ一つ助けて頂いて。
ま、元気になってもらいたい、て言う願いを持っとるけれども、家内の心と私の心が対立して、そう云う意味において、もし病院に行かじゃんならば、もう離縁してもろたっちゃ良かちゅう様に弾ずんじゃる。奥さんが。甘木の教会が親教会だそうですから、何回もお願いに行かれたら、甘木の教会でもやはり、病院に行ったが良かろうと言われる。それでも本人は行かれんと言うから、何回めかのお願いをなさったら、本人がそげん言うごとあるならば、本人の言う通りにせよと、ま、現在の親先生、ね。
甘木の安武先生がそう仰ったと。仰ったけれども、やはりまだ自分は迷うておると云う訳である。此処ん所がどう云う事になるでしょうかね。十二分の徳を受けようと思えば、ままよと言う心になれよと、ままよとは、死んでもままよの事ぞ、とこう。お道の信心をさして頂いて、今日、私が申します、教祖の神様のお心の状態と言うものがです、ね、皆んなも此の様なおかげが受けられると仰せられた、その心と言うのは、和賀心だと、こう私は申し上げましたね。
教祖の神様の中に、おそらく四六時中、持ち続けられる事が出来られたであろう、所謂生神金光大神の、所謂神格て云うか、ご境地ですから、ね、どちらへどちらへ転がしても有難い、勿体ないと云うお心であったでありましょう。そう云う心の状態に誰でもなれると、ね、誰でもなれると仰せられるその、ま、具体的なそのおかげの頂かせて頂く為の、ま、説明と言うかね、には、なら、どう云う様な信心をさせて頂いたら、おかげ頂けるだろうか、私はやはり、ね。
祈れ薬れでは、そう云うおかげは受けられないと思うね。十分のおかげ、十二分のお徳、受け様と思えば、例えばそう云う素晴らしいチャンスに恵まれた時に、そのチャンスを生かして、それを徳にして行く道、ね。昨日ある方がもう、ある方の為に沢山なお金も貸しておられるでしょう、沢山な金額の保証人にもなっておられる。また昨日も何百万かの保証をしてくれと云う様に言うて見えたから、兎に角待って下さい、もう愈々是から上しよるなら、あんた方が潰れるなら、私げも一緒に潰れんならん。
だから、兎に角親先生にお伺いしてからの事にさしてもらう、と云う事であった。お伺いに見えられた。そしてらね、神様は自分の事と思うて判を押してやれと仰った。もう是はね、もう本当にままよと言う心を出さなければ出来るこっちゃないですよ。しかもですね、ただその人にしてあげるじゃなくて自分の事と思うてと判を押せと。例えば私ども人間心使うたら、もうほんなこて、こげな事して良かじゃろうかと思うごたある。ね、けれどもね、そこに潔い心と言うか。
所謂よしなら、もうその人の毒を食らわば皿までて言った様な事を申しますが、此の人ば倒れらっしゃる時に、私も一緒に倒れるて言う心なんです。我、自分の事と思いよる、所謂ままよと言う心なんです。是は、だから、病気だけの事じゃない事が分ります。その時に本当に神様に任せられると云う心。ね、医者にすがるのじゃない、薬に縋るのじゃない、もう本当に、神様に心委ね任せると云う事。その、ね、人間病気と言う、経済なら経済の問題でもそうである。
ままよと言う心を出さなければそこにあの思うのはです、神様は氏子にそう云う度胸と、そう云う所謂ままよの心、所謂神様にお縋りお任せすると云う心を作らせたいと云う願いの他はないと思うですね。そして力も与えたい徳も与えたいと云うのが、私共はね金光大神のね、此の通りのおかげが受けられると云うおかげはね、その様な所を私は通らせて頂かなければ、いや通らせて頂く機会を与えられたならば其処ん所をです、ね、ただおかげにして行くと云うだけではなくて。
それを徳にも力にもして行くと云う生き方を取らして頂く事だと思う。そう云う例えば過程を通って初めてです、次の和らぎ喜ぶ心、まあ喜ぶ心は別として、和やらぐ心、所謂何時も穏やかでおれれる心、どんな事があっても驚かんで済む心、ね、そう云う私共は教祖金光大神の受けられた、ね、喜ぶ心と迄はいかんでも、その何時も心が安らいでおれれる、和らいでおれれると云う心の状態を目指させて頂く、そう云う心からまず頂いて行かなければならない、と思うです。ね、
ま此処でも申しますなら、ね、生神金光大神ならずともです、私自身が受けておるおかげなら、此処に皆さんがお参りになり、皆さんのがです皆んなも此の様な、この通りのおかげを受けられると云う事になるのです。合楽の方たちの、ま、云うなら素晴らしいと云う事は、そう云うおかげを皆さんが受けておられると云う事です。ね、例えば、親先生の言う事とこう本当に、ね、和らいで受けられると云うか、ね、安心して安らぎを持って親先生任せになれれると云うか、その向こうにはです、ね。
此処で私が日々頂いておる様なおかげを受ける事が出来られる。昨夜もう夜の丁度、私昨日、お客さんと言うが、熊本の富永先生が、お礼に出て参りました。ほいで夕食一緒にさして頂いて、御酒のお相伴さしてもらいよったもんですから、夜の御祈念御無礼して休んでおった。丁度文男先生と、久富先生と二人で、ま足を揉んで私は夢うつつで、揉んでもらいよったら、富永先生が見えておる。所謂小倉の、けれども、もう休んでおられると言うておきましょうと。
久富先生が言われるから、ま、うつつでうんうん、ちこう言うて、そのまま眠ってしまっておった。そしたらお夢の中で、もうしきりに起こされておる。もう起きろうと思うて、目をこうやって、ひっぱって見るけど目があからんぐらいに眠っておるけれども起こされよる。ようやく片一方の目が開いたちゅう時に、あの家内が、富永先生が是非お会いしたいち言いよんなさるですよ。はっと、富永先生の念力じゃったじゃろうね、ちからま起きた事で御座いました。
もう兎に角片一方の目だけは、こう引っ張るばってん、どうしてん開かんとじゃん、片一方の目だけが開かっとる所へ、富永先生が是非親先生にお会いしたいと仰る、ああそうかと言うてま、起きてお会いした訳でしたけれど。野口さんも丁度あちらの方へ行っておられたから、奥さんと親子三人で見えられました。もう本当にこちらへ着かせて頂きましたら、丁度夜の御祈念そして昨日は、幹三郎ちゃんがその当番で御祈念をなさり、そして御理解を頂いて、
もう感動感激いっぱい、今日もあのなんとか八木山峠ですか、あの飯塚からくるあの峠を越えながら、丁度去年の今頃、幹三郎ちゃんがああだった、こうだったと此処であの山芋を、もう手術した後には食べられませんからね、山芋なら食べられると言うので、あの大きなあの、すぼ蒔きにした山芋を買わせて頂いて、ほんに去年はあじゃったなぁと言うて、その此処へ着かせて頂いたら、幹三郎ちゃんの御祈念を頂いて、しかも御理解を頂いて、も、富永先生がそこへ座わちゃったから。
僕はびっくりしたと言う話をしたそうです。まあそんな事で大変まあ感激して茶の間の方へ見えられました。であちらでまお茶でもあげさせて頂いてから、色々聞かせて頂いたんですけれども、もう本当に神様のお働き、言うならばま奥さんやらお母さんやらはあんなに熱心に信心がありますけれども、先生はお話は頂かれんけれどもです、もう本当に神様のおかげ、神様のお繰り合わせの中に私共があると云う事をね、も信じん訳には、思わん訳にはいけませんと言うて昨日、お届がありました。
と言うのはね、もうあの十月の二十日のご大祭前に弟嫁さんの里、お父さんですが、もう今日じゃろうかと言う様に重体であった。それでどうぞ御大祭には、あとさきの御用が御座いますので、ま差し支えません様にと言うのがまお願いであった。まおかげを頂いてま無事何もなくおかげを頂かれた。その後にまいろいろなもうどうでも、此処に引っ掛かりそこに引っかかっては出来ないと云う事が何回もあってお願いをする度んびに、おかげを頂いておられた。
昨日、一昨日は、あちらのお医者さんの結婚式の仲人を仰せつかって、一昨日が結婚式でありました。もうそこでも丁度あの、そん時に幹三郎の御用をして下さった真治先生なども、ご一緒に此処に見えられましてね、ほいでたまたままた幹三郎の話が出てから、もうその後大変元気でこうこうですと言うたら、もう大変喜ばれたと言う、あの話も昨日なさっておられましたがです、そしてもう本当にま皆さんに大変喜んで頂いて、もうま見事な結婚式、と言うよりも見事な仲人ぶりがお二人に出来られて、まそのお礼に昨日はあちらを五時一寸過ぎに発たれたと。
そしてこちらから参りましてから、野口さんの方には寄らずに、此処で直接親子三人でお礼参拝をさせて頂いてから、野口さん所へ落ち着かれるはずだった。所が、先生方が出られたすぐ後と思われる五時半ごろ、電話が掛ってきた。御兄弟から、志免と言う所がありますね、そこらしい。ね、あの富永先生がそちらの方へ見えられましたら、すぐどうぞ言うて下さい、そのお父さんが亡くなられたと言う電話であった。
富永先生たちは見える時に、もう、さっき申します様に文男さんと二人、私の足を揉みでしたけん、御祈念は御無礼しちゃったんです。足揉みがありよったから、ですから、御祈念が終わり、幹三郎の話を頂いたその後に久富先生が、私の足をもみ終わってから見えて、いや今日は実は先生、こげん電話が掛かりましたよ、と言うのを聞かれてですたい、ちょうど百日余りですかね、間にその事を通して色々おかげを受けて見えられた事を、ずーっと思われた訳です。
神様のもう本当に、例えばお取次の働きと言うか、成程死ぬるも生きるもこの神様のおかげを頂かなければ、出来る事ではないなと云う事を富永先生が感じられた。しかもこの神様がです、の御許しを頂かなければ、生まれる事も死ぬる事すらも出来ないと言う事実を、もう医者として最大だと思うですね、そこが分ると云う事は、死ぬると云う事ですらがです、神様の御許しを頂かなければ出来る事じゃないんだなと云う事です。是がどうで御座いましょうか結婚式、昨日であったらそれこそ大変な役を務めておる。
片一方ん兄弟のうちのお父さんと言うのですから、ね、どっちもどうにも出来ないと言う所。しかも今日、私どもが三十分間早く、なら電話がかかって来とったら、しかもお礼参拝が出来ておられない。しかも此処にお参りをして来た、来てすぐだったらです、なら、幹三郎ちゃんのあの有難い御祈念も御理解も頂けなかった。もうそれ迄は、ただ有難い有難いで終わっておる所に、久富先生が、例えばそこにね、足を揉んでおられて、御祈念に出ておられなかったと言った様な事の様な、些細な事の中にもです。
もう富永を中心にして神様の働きと云う物が、そう云う働きがあって、だからもう今日は母を降ろして、もう此の儘志免の方へ、今日はお通夜で御座いますから、やらせて頂くと云うて、ま帰られた。まそれだけの話ですけれどもです、もうその何と言うでしょうか、素晴らしいですね、もう日々の中に万事万端のお都合、お繰り合わせ、しかも神様のそう云うご慈愛満ちたお働きの中に何時も私どもはこうやって、信心生活ができておると言う事が素晴らしいでしょうが。
あればもろうた、是を頂いたと言ったものじゃなくて、そう云う神様の一分一厘離れられない程しの、密なると言おうか、そう云うね、お繰り合わせの中に私どもは日常生活をさせて頂いておると言う様なおかげこそです、私は合楽の信条だと思いますね。ね、此方の様なおかげを受けられると言うのは、ね、此処に言うなら大坪総一郎が受けておるおかげ、是はもう皆さんも御承知の通り、それはもう本当に、今の富永先生のその話、お届じゃないですけれども。
もう日々がそう云う万事万端、ご都合お繰り合わせの中に私どもがある。成程その中に痛い事もありゃ痒い事もあるけれどもです、その痛い事も痒い事もそう云うお働きの中に、包含されておるものだと分る時に、痛い事も痒い事もお礼を申し上げなければおられないと云う事になる程しのおかげを受けておられると云う事、皆さんも。金光大神のお取次の働きの中に、所謂大坪総一郎の取次の、所謂私の祈りの圏内の中ににあるんだと云う事です。その圏内の中にあってです。
もし右になり左になり、例えばその様なお繰り合わせの中に困った事態ばかりが続くと云うならば、是は愈々もっておかしい事。その様な素晴らしいタイミングの中にです、私ども日日おかげを頂いておると云う事、是だけでもです、ね、神様のおかげを受けておると云う事が有り難い、ね、合楽にご神縁を頂いておると云う事が素晴らしい、と言う事になるのじゃないか。
私は今日、ね、皆んなもその通りのおかげが受けられると云うのは、まず合楽では、此処の所のおかげを受けて後、ね、すべての皆さんの願いである所の、願いが成就すると云うおかげになって来なければならない。言うなら、合楽畑とでも申しましょうか、まず、合楽畑の中にです、育っておる私どもの信心と云う物がです、ね、日々が成程実感として、神様の御守護の中にあると云う、それが感じられる所迄、まず信心が分ると云うか、進められて行かきゃならない。
そう云うおかげをなら、皆さんの御承知の様に私が頂いておる、そう云うおかげを皆んな、頂かれるのが合楽の皆さんの場合、ね、それが言うならば合楽畑に育っておる銘々であると云う事をです、ね。そこに例えば、間違いが起こるとするならばです、いわばそこに漏れておると云う事は、どう云う事であろうかと、和らぎ喜ぶ心、まあ、和らぎ喜ぶ心なくても、私の心の中に一つも、云うの場合でも、和らぐと云う心がある。ね、言うなら優しい心とでも言うか、ね。
ごつごつした心じゃない、優しい心和らいだ心是はま、合楽の信心のま信条だと思います。先日ある方が、もう私はもう合楽の先生は生神様の様な御方と聞いとったが、ほんなこてそうであんなさるですね、て言う話を聞いた事、私をしげしげと見てから、私のつちぼとけが、もう生仏様とか、生神様になる人は皆のつちぼとけがないち、て言う話を昨日しましたら、あの高橋さんが、そりゃね中性男でもなからなか、女でもないと云う様な人にそう云うのがあるんです。
確かにそうだと私の中に同居しておるもの、それは男と女の様な心、してみると三代金光様も、四代金光様もやはりあの、此の土仏がないですね。それはどう云う事かと云うと優しい心だと私は思うですね。所謂和らいだ心だと思うんです。そう云う心の状態になっておらないとです、今日此処で言う所の、ま皆もこの通りのおかげを受けられると、是は教祖金光大神、けども皆もこの通りのおかげを受けられると私が言うならばです、ね、二人の富永さんの例をとって申しました様にです、ね。
万事万端さあ儲かったとかどうあった、ね、さあ病気が治ったとかそう云う事もさる事ながら、日常生活の中に神様の御守護を受けておるなぁと思わなければおられない、信じなければおられない程しの、素晴らしい日々が送れれる、合楽の方達はそこの体験をみんな持っておると思うんですけれどです、もしそれが受けられていない時には、あなたの心の中に、私が願っておる所の、優しい心と言うか、和らいだ心と云うものが、ない時であるとまず悟らなければならんと思うですね。
金光大神が受けられたおかげを頂かねばならん、それはもう目指しであるけれど、まず、此処で言うならば、大坪総一郎私自身が頂いておるおかげを、目指さなければならない。ね、そのおかげをみんなもおかげを受けられると云うおかげは、ね、日々の中に、万事万端御都合お繰り合わせと云う事を云うが、その確かにご都合お繰り合わせの中に、私共がおかげを受けておる、所謂私の祈りの圏内にある限り、合楽畑に育っておる限り、是は同じおかげを受けられると云う事。ね、
中には病気をしておる人があるか知れません、経済の問題に信心しておる人がおるかも知れません。けどもそれとてもです、万事万端本当に、ご都合お繰り合わせの中に過す事が出来る、そう云うおかげを合楽では皆んな頂いておる、また頂いてもらわなければならない。それがもし欠けておるとするならばです、今、和らぎ喜ぶとまでは行かんでも、和らぐ心と云う物がない証拠、
いらいらもやもやしておる時腹が立っておる時、ね、自分の我ば前に出しておる時、我が張っておる時、ね、それは言わば、そう云う心では、私此処で私が受けておるおかげは受けられん。だからそう云う事ではいけない、本当に和らいだ心にならせて頂こう、と云う様な状態である時であるならば、もう是は絶対おかげが受けられるのが、ね、日々神様の御神ご、御守護の中にあると云う事を実感出来る程しの体験が、頂かれると私は思うです。そうお道の信心者の全てがです、生神を目指すと云う事。
そのまあ前提の前提とまあ、申しましょうか、合楽で頂いてるおかげ、そのおかげをみんなも此の通りのおかげが受けられると云うおかげを、まず頂かれて、それから先、皆さんの願いが成就していく、または、神様の願いが成就して行くと云う様な、おかげになって行かなければならんと思うのです。その例えば過程として、是は合楽の、で聞いてもらうお話は、まずほとんどが、お徳を受けると云う事、人間が本当の幸せを感じれると云う事は、ご神徳を頂かなければ。
人間の本当の幸せはあり得ないとすら私は思うとります。そのお徳を受ける為にはと、所謂昨日星野の先生のお話ではないですけれども、ね、本当に折角此処にです、ね、お徳の受けられる言わば、チャンスを恵まれ与えられておりましてもです、それをね、例えば祈れ薬れ的な方へ行くならば、おかげが受けられても、それでは私は、ね、徳は受けられないと思います。是はもう絶対なもの、合楽で言う絶対ですよ。ね、昨日お話の中にもあったそうですけれども。
現在の金光教はもう全部と言うて良い程、祈れ薬れを取っておられます。またそれでなからなければ金光様の御信心じゃないとまで極言しておられます。けども私はそうじゃない。合楽の場合はね、そう云うチャンスに恵まれたた時には、本気で一つ所謂ままよと言う心を頂いて、十二分の所謂お徳を受けて行くチャンス。昨日富永先生が、此処でお取次ぎを願われたが、先日からこうなんか診察を、御承知の様にあんな病人ですから、受けられた所が、ある病気の疑いがあるのでレントゲンに掛かられた。
所がまさしくそう云う、その病気だと云う事になられた。そいでその事のお願いをなさるのに、どう言う風にお届けをなさるかと云う事ですね、ね、此の度の病気、此の事がです、どうぞお取次の道の力にならせて頂きます様に、と云うお届でした。だから富永先生、それですよち、もうそれ以外にありません、て言うて申しました。病気になりましたと、またあらたな病気がでけたとけども是は。
私が取次者としての力にな事の為に。どうぞお願い申しますと、こう云う事である。どうぞ是が良くなりますように、てんなんてんじゃないです。それが愈々お取次ぎをさして頂くうちに確信を持って、お取次ぎがでけれるその力になりります様にと云うお願いであった。富永先生そうです、その考え方をすっきっとして行く以外にありません。だからそれと同じです。どう云う難儀な問題であっても。
是がこれからの信心を、生活させて頂く力になります事の為に、それがなからなきゃならない。其処にはとてもとても、薬れ祈れじゃない、祈れ薬れじゃない、ね、其れこそままよと云う心を出さなければ、十二分の徳は受けられんと仰るなら、此処でこそ、一つ神様任せで力を受けようと云う事になる。そう云う生き方、是は生神へのその道の、道すがら、そう言う所を通らせて頂いて、と云うお話も今申しましたですね。
どうぞ。